01STORY

人びとの想いを
伝え続ける

南山本店の建物は、滋賀県永源寺ダムに沈む運命にあった
築200年の農家「河合家」を移築したものです。
なぜ、この農家を受け継ぐことになったのか。
そんな「南山のはじまり」と言えるストーリーを
わたしたちは、たくさんの人に伝えていきたいと思っています。
不思議な生命力を持って生き長らえたこの建物を、
水没した美しい村のただ1軒の生き証人として、
今後も末永く大切に守りつづけます。

  • 失われる村の建物に
    生命の息吹を感じ、
    想いを引き継ぐことを決心。TAKE OVER YOUR THOUGHTS

    当店の創業者 孫 時英は、知⼈の加藤松林⼈画伯から
    「今、⽔没する村の絵を描いている」という話を聞きました。その翌⽇、孫は現地を訪問。ダム建設に最後まで反対していた河合庄兵衛さんと出会います。もうすぐダムに沈んでしまうという、河合さんのお宅の⼤⿊柱から「オレはまだ⽣きられる!」と叫んでいるような、とても強い⽣命力を感じたそうです。孫は「ここに村が確かにあったという証としてこの建物を残したい」という思いで1971年(昭和46年)11⽉に京都北⼭へ移築。焼肉レストランとして蘇らせました。

    はじまりのきっかけをくれた、
    加藤松林人画伯

    加藤松林人画伯は、徳島県阿南市内原町の出身で、1918(大正7)年、20歳のときに父親の事業の関係で、京城(現在のソウル)に移り、清水東雲(四条円山派の森寛斎門下)に東洋画の手ほどきを受けました。精進を重ねて朝鮮画壇で不動の地位を築きあげ、朝鮮王室で、絵の進講・指導をするなど朝鮮美術界の中心的存在となりましたが、日本に帰国後は、画壇活動には復帰せず、親善活動と美術交流に努められ、1983(昭和58)年2月14日、滋賀県大津市で逝去。享年84歳でした。
    *創業者孫時英は、故加藤松林人画伯との親交が深く、加藤画伯の描かれた永源寺村の風景画と、 画文集「朝鮮の美しさ」の原画は、 南山の本店に常時展示しております。

  • 村の証が残ることを
    村自体
    が喜んでくれている。
    そんな、奇跡のような出来事。MIRACULOUS EPISODE

    移築準備のために建物を解体した1971年(昭和46年)8⽉、台⾵が村を襲いました。⼤事な建物の部材がすべて洪⽔で流されてしまったのですが、⽔没した若宮⼋幡神社の⼤杉に”まるで花が咲いたかのように”すべての部材が引っかかっているのが⾒つかったのです。それはまるで、村⾃体が村の証が残ることを喜び、移築を応援してくれているかのようでした。そうして「河合家」を、無事に京都北⼭へ移築することができたのです。なんとも不思議な、奇跡のような出来事でした。
    移築後、孫は村の元住⺠の皆さんをたびたび店に招待。住⺠たちは故郷のにおいがする⼤⿊柱をなで、天井を眺めて懐かしく思い出を語り合っていたそうです。

    河合庄兵衛さんの想い

    河合さんは、村の中心であった若宮八幡神社の発行された「ふる里の記」の編集をされ、そこに村の歴史・ダム計画との戦いの歴史を克明に記録されましたが、その編集後記では、次のように記されています。

    過ぎ去った村を静かに顧みる時、村の歴史の一つ一つは祖先感涙の偉業であり、これを偲び 心に深く打たれ、禁じ得ないものがあり、所詮は村の宿命と解する外なく、何か云いようもなくせまる空しさは、哀愁身にしみるものを覚えます。
  • 日本の美しい農村と
    文化を守るということPROTECT CULTURE

    創業者は、京都でカトリック教会の伝道師(カテキスタ)をしていましたが、両親が農業を営む大分県中津市に戻ってレストランを創業。聖書を農業の書、経営の書と読み替え、北九州、京都の河原町三条へと出店し、厳しい経営難に陥ります。そんな中で出会った永源寺村の「河合家」を京都に移築することは、創業者の孫にとっても南⼭にとっても、とても重要な出来事になりました。
    「当時、経営の建て直しばかり考えていた外国⼈の私に、⽇本⽂化を⼤切にしたい、との素朴な感情が芽⽣え、それが成功につながった。」と孫は当時を振り返って語っていました。⽬先の経営技術より、日本の美しい農村を守り、⼈と人とのつながりを重視すること。この想いは南山のDNAとして今も受け継がれています。

02STORY

創業者から
受け継いだ

食の安心・
安全への思い

輸入牛ではなく、こだわりの国産牛を仕入れることは、健全な農業者とつながり、農村の美しい風景と文化、さらには環境を守ることにもつながります。
この考え方は「レストランが安全な有機農産物の生産を支えるパイプ役となる」という創業者の思いに通じています。
創業者の想いを受け継ぎ、新たな未来へと伝えていく。
それが、わたしたちの使命です。

  • 理想と現実のギャップの中、
    ⾷と農と⼈をつなぐ
    架け橋になるために。BECOME A BRIDGE

    南⼭の創業者、孫時英は、「レストランが安全な有機農産物の⽣産を⽀えるパイプ役となる」ことを⽬指し、全国にのれんわけ店舗をつくり、⼈材教育に打ち込みました。
    レストランの役割を家庭の次にくつろげる「共に集う場」ととらえて「⾷の哲学」を掘り下げ、全国を歩いて農業⽣産者さんとのつながりをつくりましたが、時代の波に押されて、⾟酸をなめる結果に。2001年8月、万策尽き果てて孫は病気を患い引退。債権者による経営管理下で、企業の整理縮小が行われることになります。奇しくもその翌月、2001年9月にBSE(狂牛病)問題が起こり、南山も⾷の安⼼・安全について改めて考えを深めるきっかけとなりました。

  • 牛の奥深さを知り、
    農家さんとつながり
    支え合うために。SUPPORTING FARMERS

    創業者引退後は、莫大な負債を引き継ぐ形で楠本貞愛(孫の長女:現きたやま南⼭会⻑)が南⼭の代表に就任しましたが、BSE(狂⽜病)問題を通して、「本当に⾃信のあるものしか売りたくない。」という思いで、⽜のことを⼀から学び直すこととなりました。⽜は、奥が深い動物。⽜のこと、⽜を育てる⽣産者さんの想いや背景、知れば知るほどおもしろく、のめり込んで⾏きました。そうしてたどり着いたのが、「⽜⼀頭を農家さんから直接仕⼊れるということ」です。⽜のことを深く学ぶと、「レストランが安全な有機農産物の⽣産を⽀えるパイプ役となる」という想いを掲げていた創業者の思いに、⾃然とつながったのです。

牛の魅力、食のすばらしさを伝え、
未来の担い手を育てる。

南山では、安心・安全な牛肉を追求するうち、牛1頭1頭の語りきれないストーリーに魅せられ、牛だけでなく、米や野菜 、鶏や豚も、すばらしい生産者さんとのご縁が広がっていきました。
そして、「牛のこと、食のことをもっとたくさんの人に、正しく知ってもらいたい」という想いが新たに生まれたのです。
わたしたちが伝えることで、次の担い手が育ち、さらにその先の未来へとつながります。
そこで、南山では食の魅力を伝え、若い職人が挑戦できる場「ギューテロワール」を南山の地下につくりました。ギューテロワールは、牛(ギュー)とさまざまな生産者の生産背景(テロワール:フランス語)から名付けた造語です。ワインのように、牛肉について語り合えるような場所になればいいなと考えています。
わたしたちが、今できることを考え、発信し続ける。今まで関わってくださったすべての方々に感謝をしながら
わたしたちの挑戦は、これからも続きます。